イトーヨーカドーの北海道撤退を振り返る
1960年代から70年代にかけて、北海道には本州の大手スーパーが相次いで進出している。主なものを列記すると
・1967年 長崎屋(札幌店)
・1973年 ダイエー(札幌ショッパーズプラザ)
・1975年 イトーヨーカ堂(ヨークショッピングスクエア帯広)
・1978年*1 ニチイ(北海道ニチイニチイ江別ショッピングデパート)
この中で比較的後発組、かつ非札幌都市圏が一号店というのが特徴的なのがイトーヨーカ堂である。また、筆者の地元であるオホーツク管内に直営店を出店したのはイトーヨーカ堂とマイカル北海道(北海道ニチイ)の二社のみである。
例えば2024年に北海道から撤退した西友はその歴史こそ長いものの、筆者のようなオホーツク在住だった人間にとっては馴染みのないテレビの中の存在だった。
一方で北見や釧路に出店し、2010年代以降まで営業を続けていたイトーヨーカドーは「郷土の象徴」、「身近にある都会」といった存在だった。
思えば2018年の釧路閉店前は11店舗あった北海道のイトーヨーカドー。それまでも閉店はあったが全国的にもこの時期から閉店が加速したのは記憶に新しい。
次いで恵庭、函館、旭川からの相次ぐ撤退。札幌市内以外は残らないのでは……という憶測が飛び交う中で2023年5月には三大都市圏への店舗集中という実質的に地方・北海道からの撤退を宣言する報道*2が。
それから2年弱、ついに明日アリオ札幌店の閉店をもってイトーヨーカドーは北海道から完全に消えることとなる。
1人の北海道にゆかりのある商業施設好きとしてはその50年を振り返るのが良いのだろうが、そこまでの知識も気力もないので今回は釧路店以降閉店していった各店舗を紹介し、50年の歴史に終止符を打つ北海道のイトーヨーカドーへの餞別としたい。

*1:1975年のNAC北海道地域協議会発足を祖とする説もあるがここでは本題から逸れるため深入りしない
旧マイカル本牧

1982年、西端ニチイ社長の死去に伴い副社長の小林敏峯氏がニチイの社長に就任する。小林氏は西端氏ほか2名(福田氏、岡本氏)とともに四社合併で誕生したニチイの創設メンバーであり、4人の中で最年少であった。小林氏が社長に就任した1982年は大店法規制が強化され、大手スーパーの出店が困難な情勢となっていた。こういった情勢の中スーパー業界売り上げ5位のニチイは合併で規模を拡大を画策、西端時代からの悲願である6位のユニーとの合併を進めていく。しかしニチイ社員の収賄事件を発端として両社に溝が入り僅か3か月で破談という結末を迎えてしまった。ユニーとの合併白紙化という挫折を経て小林氏とニチイは脱スーパー路線・時間消費路線を進んでいくこととなる。
一方で横浜市は1982年に米軍から返還された基地住宅跡の区画整理事業「新本牧まちづくりを開始」。約27万坪に広がる広大な区画の再開発事業である。1984年にその核となるセンター地区1万坪のディベロッパーに選ばれたのがニチイだった。
この直後、ニチイはグループ名をマイカルと変える。マイカルと小林氏がその理想を初めて形にしたのがここ本牧であった。
1981年開業のららぽーと船橋ショッピングセンター(現ららぽーとTOKYO-BAY)に端を発した超大型ショッピングセンターは大店法の規制の中で、セゾンのつかしんやジャスコのノアのようなモノだけではなくコト消費にも重点を置いた「街」づくりへと変化していく。


こういった状況下でのマイカルグループにとって初めての「街づくり」が新本牧開発であったわけである。
こうして1989年に開業した当地はグループ名を冠してマイカル本牧と名付けられた。初のマイカルタウンである。
スペイン植民地様式風(なぜスペイン本国じゃない……?)のデザインで統一された複数の建物から構成されておりそのほとんどが屋外連絡通路で繋がれていた。
開業初年度には1500万人もの人がマイカル本牧を訪れ、翌年も1600万人もの来街者を誇る一大名所となっていた。
前置きが長くなりすぎましたが以下旧マイカル本牧のレポートです(画像多し)
※マイカル本牧はマイカル独立時代でも数度の改装が行われており、以下の文はそのあたりがごっちゃになってます。
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